2009年6月13日土曜日

70年代の匂い

 今日は城西大学エクステンションプログラムというので,キネマ旬報創刊90周年記念特別セミナーとして「愛のコリーダ」が誕生したいきさつをプロデューサーである若松孝二氏が語る講座があり,参加してきました。本当は受講料2500円で,もちろん,この程度の出費は当たり前なのだが,映画検定合格者は無料で受講可能ということで,これまたウレシイ。時間ぎりぎりに言った割に最前列が取れましたv 
トークでは,藤竜也と松田暎子のキャスティングに関する話や,渋谷の高利貸しからトイチで金を借りて制作を開始した話など,プロデューサー若松孝二の本音が聞けてなかなか面白かったです。
大島渚監督作品は反体制的なものが多く,すごく好きなんですが,一つ挙げるとすれば,やはりこの作品になります。まぁ,いろいろと曰くつきな作品であることは皆様ご存じのとおりです。昨年公開された若松監督自身の『実録「連合赤軍」』もまたすばらしい作品でした。この講座に参加するにあたって,2本の作品に思いを馳せてみると,ちょっと気になることがあったので,質問してみました。
その質問とは,次のようなもの。昨年の「連赤」は現代の役者で現代に撮影されているにも関わらず,70年代の空気感が手に取るようにわかるという意味で臨場感あふれるものでした。対照的に「愛のコリーダ」は,昭和11年に実在した阿部定事件を題材にしているにも関わらず,この映画が撮影・公開された70年代の匂いや空気感がプンプン漂ってくる作品なわけです。時代の「香り」じゃないんだな。「匂い」という言葉がやっぱり似合う。生き物としての人間の匂い,生のエネルギー,ふつふつと沸騰して今にも爆発しそうな「くすぶり」にも似た空気,そんな感じが漂っているわけ。これが,製作者側が意図して漂わせたものなのか,意図せずとも必然的にこうなってしまったのか,あるいは,映画を見る側の錯覚としてそのような感覚を覚えているだけなのか,どれなんだろう?と。
若松監督の回答は,必ずしも的を得たものではなかったけれど,昭和11年は226事件があり,一方,この映画が公開された頃には70年代の学生運動があったりと時代の奔流の中で若者のエネルギーが爆発するような空気があって,それは必然的に作品の中に影を落としているように思えるわけですね。意図したといえば意図したんだろうし,このあたりの物語を紡げば,必然的にそういう空気が漂うのは当たり前といえば当たり前なのかもしれません。愚問だったか。
しかし,70年代の匂い,というのはやはり人間の汗のにおい,肉体の匂い,動物としての人間の匂い,生のエネルギーというのがボクのイメージなんですよね。しかもこの作品で描いているのはある意味究極の愛の形,感情のエネルギーの暴発とも言える。ボクは人間様も哺乳類の一種であるにすぎない,という考え方をすることがよくあるわけですが,そういう意味では,「愛のコリーダ」は人間の動物としての根源的なテーマを可視化したもの,とも言えると思うわけですよ。一方,「連赤」の方はというと,イデオロギーというものを持ってしまった人間と,人間どうしの間に働くある種の物理的相互作用が化学反応を起こすことによる悲劇を描いているようにも思えるわけです。そういう意味でも対照的な感じがしますね。そういえば,大島には「マックス・モン・アムール」なんて作品もありますね。それもある種の愛の形。
昨年,「連赤」公開時のトークショーでも若松監督の話を聞いているわけだが(写真はその時にいただいたご署名),今回は,すごくおだやかで,好好爺という印象で登壇され,なんかいつもと雰囲気が違うなぁ,という感じでした。ただし,話が赤軍や足立正生の話に及び始めると,なんとなくトークが熱を帯びてきてボルテージが上がって,いつもの若松監督の迫力が出てきたようで,さすがでした。この後10年で5作は撮りたいというのにも改めて敬服。とにかく次の作品(芋虫),次の次の作品(山口二矢の話?)も楽しみです。
ボクが大学に入ったのは80年代も終わりで,シラケ世代どころか,バブルの全盛期でした。それでも,ボクは高校の自治委員長だったというだけで,入学した途端にその筋の学生からも事務部(学生部など)からもマークされていたフシがある。大学1年の時,大学祭の実行委員会に入って活動してたんだけど,某先輩に「小嶋,こえー」とか言われた記憶があります。こちとら,高3の時,最初の委員会をサボって欠席裁判で委員長にさせられただけなのに…そういう意味では当時の大学は今よりも少し(かなり)怖かったのかも知れません。学祭の実行委員会はセクトじゃなかったですよ,少なくとも僕のいた当時は。というか,セクトとかノンセクトなんて用語が出てくること自体怖いか。すいません,不穏な話でした。

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