2016年1月19日火曜日

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そうか…2ヶ月も放置してしまっていたか…

いつの間にか年も越してしまったしなぁ…

ま,でも何事もなかったかのように投稿します。
何事もなかったかのようにお読みください。

さて,今日はコミュニケーションの話。
今年度の初めに,人と人とのリアルなコミュ力が必要だよ,ということを書かせていただいた。

友達との間のコミュニケーション,学生と教員とのコミュニケーション,家族間のコミュニケーション,などなど。

言い方を変えると,いかに自分の考えを他人とシェアするのか,ということになる。
できるだけ多くのことをシェアできれば,お互いの理解も進み,無用な誤解や諍いを避けることにもつながるだろう。

情報理論では,この「シェア」する情報の量を「相互情報量」と呼ぶ。
相互情報量とは,平たく言えば,AさんとBさんが共有する情報の量である。
別な表現を使えばこうなる。例えば,Aさんが情報を伝える側(送信者)で,Bさんが情報を受け取る側(受信者)であるとしよう。この時,相互情報量が意味するものは,AさんがBさんに伝えた情報のうち,正しく,つまり誤解なく伝わった情報の量ということになる。
デジタル通信の世界では,単位時間,例えば1秒間あたりの相互情報量を考えると,それはすなわち,1秒あたりに誤りなく伝達される情報の量,つまりビットレートということになるのである。

何の話?と思っている方もいると思うので,具体的な本題に入る。

昨日からの2日間,東北大学の電気通信研究所で電子情報通信学会マルチメディア情報ハイディング・エンリッチメント研究会(EMM研究会)が開催され,ウチの学生も3件発表を行なった。こういう研究発表は,アカデミックな世界で言えば,まさに考えをシェアする行為そのものである。
他の研究者や学生と問題や考えを共有し,議論を深めることにより,問題が解決したり,新しいアイディアや技術が生まれたり,新たな問題が発見されたりすることになり,その分野の学問や技術そのものの進展にもつながることが期待される。
学生の研究指導をする立場で言えば,というか自らの研究を進める上でもそうなのだが,この手の研究会では,発展途上の研究について講演したり,新しい問題提起をすることもできる。というか,そういう話ができるところにこそ,メリットがあるようにも思う。
学術雑誌に投稿する査読付論文だとそれなりの完成度や新規性が求められるが,研究会はそこまでの縛りはないので,さすがにあまりにお粗末な話はできないまでも,少し気楽に自分が抱えている問題や自分なりのアプローチを話し,考えをシェアすることができるというわけ。

これって特に学生にとっては本当にうってつけで,研究室のゼミでは出なかったようなアイディアが外で発表することで得られる場合もあるし,気づかなかった問題点を指摘されて,新たな課題が見つかることもある。こうして僕らの研究活動は連綿と続いていくわけである。だから研究会や学会の場で(もちろんアフターでも…)他の研究者らと考えをシェアすることは学生のみならず,我々教員にとっても非常に重要な行為なのである。

寺山修司ばりに「書を捨てよ,町に出よう」とかいうと,少し意味が変わってしまうが,積極的に外に出て対外試合をすることはもっと推奨されるべき。これは学問もスポーツも同じだ。

今回の研究会で発表を行なったウチの学生たちも,それぞれベストを尽くしたと思うし,非常にいい質問やコメントをもらった。僕自身にとっても収穫の大きな研究会だったと思う。

さて,というわけで昨日,今日と仙台へ出張だったのだが,実は今日は研究会は昼前に失礼して,速攻で学校まで帰ってきた。学生たちは夕方まで研究会に参加していたのだと思う(多分)。
僕が急いで帰ってきた理由は,重要な会議があるから。議案そのものも重要だったが,非常に重要な発言をしなくてはならなかった。その発言によって,結論がどうなるのか,いろいろなシナリオが考えられたわけだが,結果としては想定していた最良の結果でも最悪の結果でもない,中庸のところでオチがついた。
ただ,収穫としては,僕や僕の周囲の人たちがどんな考えを持っていて,どんな問題を抱えているのか,そんなことをシェアできたと思うし,新しい課題も生まれた。自分の頭の中も少し整理ができたし,会議の前は結構頭に血が上っていたんだけれども,他の出席者と考えをシェアするうちに逆に冷静に考えられるようになり,この先に考えるべきこと,なすべきことが明確に見えてきたようにも思うのだ。
会議前と会議後の相互情報量は明らかに増加していたのだと思う。

というわけで,コミュニケーションの大切さを改めて感じることができた2日間でした,という話。

学生のみなさん(に限らず),外に出て,考えをシェアしよう
一歩踏み出して,声に出してみよう。
おそらく,少しだけ世界が変わって見えるはずだから。