2019年11月7日木曜日

勝手にしやがれ

政府の作成する公文書等で、日本人の名前を英文表記する際、姓−名の順とすることが定められたそうだ。報道もされたし、ウチの学校においてはご丁寧に本省からの通達もあった。

くだらねえ。

この件については、人によっていろいろな捉え方があるだろう。
賛成意見もあるだろうし、反対意見もあるんだろう。
僕は、反対も賛成もしない。
ただ、こんなことを国としてわざわざ表明するこの国のやり方が単純にくだらないと思うだけ。どうだっていいだろ?こんな話。

あえて言えば、どちらかというと嫌悪感を覚える。
なぜなら、この国の政府は、国民個人を同定する記号としての名前を表記する上で、一個人としての記号ではなく、「家」を象徴する記号の方を重視するように聞こえるからだ。

繰り返すが、そういう違和感を覚えるものの、別にどうでもいいと思っている。
こんなくだらないことに労力をかけるこの国のやり方がひたすらくだらないと思うだけ。

僕には海外の研究者やビール醸造家など、外国人の友人が数多くいる。
彼らの中には、僕のことを名前で呼ぶ者もあれば、姓で呼ぶ者もいる。
だからといって、別にこう呼んでほしいなどとは特に思わない。
どちらで呼ばれても自分の顔や立場と紐付けされた記号には違いないからだ。

海外にいる僕の共同研究者は、若い頃書いた論文では誤ってgiven nameの方が著者名として認知されてしまい、今でも当時の論文はgiven nameで引用されることが多い。今は本人も積極的にfamily nameの方で特定されるように注意しているようだが、どちらで引用されようとも、彼本人、一個人としての業績には違いないし、本人を知っている僕らにとっては、どちらで表記されようとも、彼の顔を思い浮かべてその業績を特定するので、別にどちらで表記しようがどうでもいいのだ。

こんなこと、国がああしろ、こうしろなどというような性格のものでは決してない。

だから、今回の話は国が作るどうでもいい公文書に、名前さえ乗っていればいいどうでもいい個人を特定する際のルールをわざわざ決めただけだろうと思っている。

僕自身は海外の友人から、どちらで呼ばれようとも別に何とも思わない。
どう、呼ばれようが、僕は僕だ。
今までも、これからも。

ほんっとくだらねえ。

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