2013年12月29日日曜日

MOOCsの功罪

NHK Eテレで放映された番組
を見た。
MITやハーバード大などが先導して行ない,近頃東大も実践を始めた大規模オンライン公開講座 MOOCs (Massively Open Online Courses) に関するドキュメンタリー。世界のどこにいても,配信されるビデオ授業を受講でき,宿題やレポートを提出することで,修了証を得ることもできるというもの。マイケル・サンデルの白熱教室(僕は好きじゃないけど)なんかにも代表されるが,新しい教育の形として注目を集める一方,教育の現場では論争の的にもなっている。

実は,かなり批判的な目で番組を見ていたんだけど,見終わった後の印象はそんなに悪いもんじゃなかったし,見ながら自分の考えが改めて整理できたので,それについてちょっと書いてみる。少し長くなるかもしれないが,あしからず。

これまでにも,この問題について,ここでも書いてきたことがあると思うけれど,僕の考え方は一貫している。僕の立場は,
  1. 自分の授業がビデオで撮影されることはOK
  2. 撮影された授業がネットで配信されることもOK
  3. ただし,配信された授業のクオリティは保証しない
というものだ。 3. について誤解のないように言っておくと,ビデオ講義を適当に手抜きして作るとか,そういう低レベルの話では決してない。授業を録画したりビデオ素材として作成されたコンテンツは,所詮録画されたある一瞬を収録したものにすぎず,所詮,生の講義にはかなわないでしょう,というのが僕の考え。以前にも同じ例えをしたと思うけれど,音楽,特にジャズなんかに置き換えてみるとわかりやすい。CDやDVDに収録された音源は,収録時のミュージシャンの演奏を切り取ったものにすぎず,アドリブや客席との掛け合い,ミュージシャンの息遣いまでを肌で感じることができるライブ演奏とはそもそも別物なわけだ。

実は学校の授業だって同じ話。仮に僕の授業がビデオで配信されたとして,それはある日のある学生たちを前に行なった授業を再生したものに過ぎない。仮に同じ話を別なクラスでするにしても,出席している学生やその日の体調や気分,あるいはその日の天気やニュース,外から入ってくる騒音などによって,いろいろなアドリブが出てくるだろう。それらが混然一体となったものがその日の授業なわけで,その臨場感はその日その場にいた学生だけが享受できる特権なわけだ。僕らもその日その場にいた学生に向けて話しかけているわけだしね。人間の記憶ってのは,ある一方向からの入力信号だけではなく,さまざまな刺激があった方が定着する。そういう意味でも,授業だって,僕が話しているのを映像や音声として感じるだけではなく,それに伴うさまざまな刺激とともに受け取ることで,しっかりと理解でき,記憶としても定着するはずだ。

だから,僕は時々冗談で(てか半分本気だけど)授業のことをライブと呼ぶし,90分間それなりの覚悟をもって話をする。毎回,それなりの準備やイメトレもするし,90分が終わると,ホンットにヘトヘトに疲れる。だから,学生にもそれなりに真剣に授業を聴いてほしいわけよね。てめぇ,寝てんじゃねぇよ,ってわけ。

さて,一方のMOOCsだが,
  • 世界中のどこにいても,最高レベルの講義が受講できる 
  • 受講者からのフィードバックが授業改善にもつながる
  • 大学としてはPRの一環にもなる
というあたりが,一応のウリなんだろう。発展途上国だろうが,経済状況が悪かろうが,ネット環境さえあれば,誰にでも才能を発揮するチャンスが生まれる。

ただ,上で書いた僕の考えからすると,これまでできなかった教育を提供することや教育の新しいビジネスモデルを作ることはできても,結局,講義のレベルとしてはそれ以上にはならない。所詮,ライブ品質のクオリティを凌駕することはできない。これはメディアの特性上,どうにもならないことだと思うんだよね。

じゃ,僕はMOOCsに反対か,というとそういうわけでもない。ビデオで作成されたコンテンツはライブには及ばない,だけれど,テキスト代わりには十分になる。というか,単なる本ではなく,受講しているほかの受講生とやり取りができるという意味で,印刷物としてのテキスト以上の効果はあると思う。番組の中でもサンノゼ州立大の例で,授業前にビデオを見て予習することを課す,というのがあったが,そういう利用法は決して悪くない。ただそれを生の授業にどう活かすかは教員次第で,その意味で番組中のサンノゼの例が好例かどうかは微妙なところなんだけれども…教員や学生の負担軽減だけでなく,クオリティをどう高めるかを議論しないとね。

ということで,例えば,僕自身がMOOCsを使って授業をするとしたら,一つの解答は次のようなものだ。
  1. 授業前に予習として,僕自身のビデオ授業を見ることを学生に課す。
  2. 90分の生の授業では,演習やディスカッション,少し高度な内容のレクチャーを行なう。
  3. 復習として関係するオンライン講義を見ることを学生に推奨する。
これなら今以上のクオリティのものを提供できるし,今,半期15回でカバーしきれない内容の授業も展開できる。学生の理解も深くなるに違いない。近年高専で導入されている学修単位(注)にも効果的に導入できるだろう。ちなみに,1. は僕自身のビデオではなく,他人のビデオを見るのでは,あんまり意味はない。自分の授業のシラバスにあった教科書が世の中にほとんど存在しないのと同じで,自分の授業の予習になり得るビデオ素材としてはたぶん自分のものを使うしかないのよね。一方,他人のものは,理解を定着させるために復習に使えばいい。これなら,MOOCsを利用する意味が見いだせる。先の音楽の例になぞらえるとこんな感じになる。
  1. あるミュージシャンのCDやDVDを視聴
  2. ライブを観て生の演奏を体感
  3. 他の音源や他のミュージシャンの演奏を聴いてみる
こうすることで,その音楽をもっと好きになるだろうし,理解も深まるでしょう。こういうことは音楽ファンなら普通に実践していることだったりするんじゃないかな?だったら,それを学校にも導入しない手はないんじゃないだろうか?

というわけで,現時点の僕の一つの答えとしては,MOOCsで提供されるコンテンツのクオリティは保証しないし,生の授業には及ばないと思うけれども,オンラインコンテンツを利用して生の授業のクオリティを高めたり,拡張することは有意義,というところだ。

この考えに同調してくれる同業者は少なくないと思うし,そうあってほしいと思うが…どうなんだろ。ってか,そうでないとダメなんじゃないかな?


(注) 高専の授業は50分を1単位時間として1回の授業は2単位時間,15回の30単位時間を履修することで学生は1単位を修得することができる。大学は1時間を60分として45時間で1単位。これに対応させるため,高専でも自学自習を含めた45時間で1単位と見なすものを学修単位と呼ぶ。

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