2013年2月1日金曜日

師曰く…

ここんとこ,世間では暴力やら体罰やらでひと騒ぎあるようですね。

今朝 twitter でも書いたんだが,一連の問題で議論するべきことは,暴力の是非ではない。
暴力や体罰がなくても,問題の指導者や教師はいずれ他の理由で糾弾されたのではないか?
あるいは指導や教育の成果を示すことなどできなかったのではないか?

なぜ,そう思うかというと,問題の根源は何かといえば,師弟間における信頼関係の喪失にあると思うからだ。もちろん,信頼関係が築かれていたからと言って暴力は許されないと思うが,一つの小さな過ちが大きな問題に発展するようなことは避けられただろう。

教師だって人である以上,完璧ではありえないし,過ちの一つや二つは起こす。それは初めからわかっているわけで,その過ちを認めて正し,軌道修正することは,指導する側とそれを受ける側との間に信頼関係がなければあり得ないだろう。

教師や指導者も,学校や教室,チームというコミュニティを形成する一要素に過ぎず,その中で,ある特定の役割を与えられているに過ぎないのだと思う。そうだとすれば,指導する側は,そのコミュニティのお山の大将になるのではなく,集団の中における自らの役割,立ち位置をしっかりと見極めることが求められるだろう。また,指導される側が指導者を敬うのと同時に,指導者側も指導される学生や弟子に敬意を払うべきだ。だからこそ,そのコミュニティがうまく回転し,そこに成果が表れるのだと思う。

僕は,時々,ある先生に言われた言葉を思い出す。

大胆かつ謙虚に。

これは非常に含蓄に富んだ言葉で,今でも僕の行動原理の一つになっている。研究者としても教員としても,ことを起こす上での一つのよりどころになっている。そして,これこそが,我々が教員たりうる上で,学生たちとの間に信頼関係を築く上で重要なカギともなっているように思えるのだ。

そもそも,我々教員が相手にするのは,リカちゃん人形やバービー,ミクロマン(懐かしいな…)やG.I.ジョーなどではない。血の通った,感情のある,頭でものを考えることができる人間たちなのだよ。一人ひとり考え方も能力も違う。我々に求められているのは,一人一人にカスタマイズされた指導を臨機応変に行うことだ。もちろん厳しい指導を行なうことは必要だろう。そこには譲れないものがある。しかし,感情にまかせて突っ走ったり,ただ一つの原理に突き動かされて画一的な指導を加えることは到底適切とは思えない。それより,時には,一歩ないし半歩下がって自らの背中から物事を見ることも必要だろう。そうすることで自分を含めたコミュニティ全体を客観的に眺めることができるのだと思う。まさに謙虚さのなせる業だと思うのだ。

自分が学生たちとの間に絶対的な信頼関係を築けているとは必ずしも思わないけれども,少しでもいい関係が作れるように努力はしているつもりだ。これは,本当のところは,言葉でいうほど生易しいことではない。我々のような職業は,そういう意味で,それなりの能力(というより適性かな?)や経験だけではなく,緻密さや繊細さが要求されているのだと思う。まぁ,いつもこんな小難しいことを考えて学生と向き合っているわけではないけれども,特に,昨今の報道を見るにつけ,改めて襟を正さずにはいられない。

大胆かつ謙虚に。 
 
そんなわけで,今日もこの言葉をかみしめて,少しだけ背筋を伸ばしてみた。


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